茂木 (2006) 3-3 みっつめの記事
さて、記事を書きますか、精神衛生のために。
茂木健一郎が路頭に迷ってくれれば、私の苛立ちはおさまるのだが。
このように、私たちの心の中にクオリアを生じさせるニューロンの発火のクラスターは有限の物理的時間が経過しないと形成されないのに、このクラスターの上に重生起するクオリアは、私たちの心の中の「瞬間」に感じられる。例えば、視野の中に赤のクオリアが感じられる時、それは、ある「心理的な瞬間」に感じられるのであって、物理的時間の経過とともに「徐々に」感じられるのではない。ニューロンの発火が、一つのニューロンから次のニューロンへとシナプスを通して伝わる過程で、たとえ有限の物理的時間が経過したとしても、心理的な時間の中では、それは一瞬に「潰れている」。例えば、「赤」のクオリアを生起させるニューロンの発火のクラスターが形成されるのに一〇〇ミリ秒の時間が経過しても、私たちはその赤のクオリアを、心理的時間の中ではある「瞬間」に感じるのである。 (pp. 104-106)
私がこの文章を読む限り、「クオリアは私たちの心の中の「瞬間」に感じられる」と述べる茂木の根拠は、「一人称的視点からそう思われる」ことであろう。しかし、物理的な時間一〇〇ミリ秒は心理的時間の中ではなかったことにされる、ということを「一人称的視点から、そう思われるでしょう?」と肩をポンと叩くだけで納得させる、という茂木の行いを、少なくとも私はやろうとは思わない。なぜなら、私の一人称的視点から、心理的な「いま」を反省してみよ、と言われてちょっとやってみる間に、一〇〇ミリ秒なんてすぐ経過してしまうからである。神経生理学の内部で問題になるオーダーの時間がいかに短いか、ということを曖昧にしつつ、心理的な「いま」を反省する際の時間の長さを(本当はある程度の幅があるのに)「瞬間」に置き換えてしまうところに、茂木の詐欺師性が表れている。
心理的な時間が物理的な時間の上に重生起する過程は、ニューロンの発火のクラスターの上にクオリアが重生起する過程と一体となって起こるはずである。 (p. 106)
3-3 ひとつめの記事、で問題にした表現が上記引用箇所で現れている。この文章を書いている時点で、哲学科の大学院修士課程には受からないだろう(笑)。
茂木の「重生起」の原語はsupervenienceであることを思い出そう。
「心理的な時間は物理的な時間にスーパーヴィーンする」
これは、
良く言って「トリヴィアルに真」、
悪く言って「あなたスーパーヴィーニエンスの概念を分かってる?」
と言われるレベルだろう。
そして極め付けに、AがBにスーパーヴィーンする「過程」などという言葉遣いも出てくる。端的に、噴飯ものである。こんな本について茂木は、
[本書を]もう一度読み返したが、自分自身でも刺激されるところが多かった。脳と心の関係を考える上で、現在 [=2006] でも意義深い論考となっていると自負する。(文庫版へのあとがき、p. 290 。[ ] 内はどぶさらいによる。)
と言っているから、2006年になってもこの言葉遣いの問題点に気づいていない、ということである。心身問題の泥沼に本気で捕われた人間なら、関連書籍をちゃんと読み、誤りを正せるのだが、茂木センセイにはそんな気は更々ないらしい。端的に、死ね!これまでの稼ぎを全てUNISEFに寄付して、路頭に迷え!