どぶさらい

精神衛生のために。

茂木 (2006) 3-2 ふたつめの記事

さて、さらに茂木に笑わせてもらおう。

(supervenience の訳語としては、「付随性」や「重ね描き」というものがあるが、ここで私が注目している原語のニュアンスは伝わってこない。そこで、私は、対応関係のメタファーを超えるための概念として、ここでは「重生起」という訳語を用いる。「重生起」という訳語でも、原語のニュアンスは十分に伝わらないから、本来は supervenience という言葉をそのまま用いた方がいいかもしれない) (p. 100)

supervenience の概念に注目する理由は、その言葉のニュアンスゆえ (?) らしい。

 一九七〇年に書かれた論文の中で、デイヴィドソンは、「重生起」の概念を、次のように説明している。

 心の属性は、何らかの意味で、物理的な属性に依存、ないしはそれに「重生起」される。このモデルの下では、物理的状態が同じなのに、心の状態が異なるということはあり得ない。また、心の状態が変化する場合には、必ず物理的状態も変化しなければならない。 (p. 100)

訳への細かい指摘はともかくとして(Davidson (1970) の原文に忠実とは言えない、とか)、茂木がいったん "supervenience" をこのように解した、ということを押さえよう。(そうしておくと、後で余計に笑うことができるから。)

 それでも、私が、対応関係というよりは、「重生起」という概念が、ニューロンの発火のクラスターのパターンとクオリアの間の関係を記述するのに有効だと考える理由は、「重生起」には、「対応関係」には含まれていない次のようなニュアンスがあるからだ。 (p. 101)

なんで、スーパーヴィーニエンスの概念を持ち上げるのに、その言葉のニュアンスを持ち出すのか理解不能だが、もうすこし茂木の言っていることを追ってみよう。

(1) 「対応関係」まずは独立したものとして二つの集合を措定した上で、それぞれの集合の中の要素の間の関係を考える。それに対して、「重生起」の方は、二つ属性が「ぴったりと寄り添った」ものとして、関連性を持っているという感じがある。 (pp. 101-102)

こんなことで持ち上げられても (笑)。

(2) 「対応関係」には、時間が明示的には含まれていない。一方、「重生起」の場合は、一方(例えばニューロンの発火)が、他方(例えばクオリア)と密接に連動して、まさに今生じつつあるというニュアンスがある。その意味で、時間が明示的に含まれている。 (p. 102)

このニュアンスを、茂木自身がさきに為した説明のどこに読み込むことができるのか、さっぱり分からない。

(3) 以上のことからも分かるように、「重生起」の概念には、因果性が本質的に取り込まれている。一方、「対応関係」は、本来的に因果性を含まない。 (p. 102) 

全然わかりません。世間が知らない言葉なら、自分の本の展開に都合のいいニュアンスをいくら読み込んでもいい、と思ったら大間違いだ。 

スーパーヴィーニエンスの概念は、専門的・技術的な概念である。

「そうしたスーパーヴィーニエンスは、全ての物理的側面において同じでありながら何らかの心的側面において異なっているということはありえないということ、あるいは、或る対象が何らかの物理的側面を変化させることなしに何らかの心的側面を変化させることはありえないということ、を意味するものと理解することができるかもしれない。」(Davidson (1970))

あくまでこの定式化に忠実であるべきだ。(「スーパーヴィーニエンス」という語の「ニュアンス」が問題になるようになってしまったら、その語は、世間に浸透したと言えると同時に、哲学上の専門用語たりえなくなった、ということである。)

スーパーヴィーニエンスの概念は、とりわけ、「余計なことを言わないようにするための」概念だ。Davidson (1970) がこの概念を持ち出したのも、自身が採用する非法則論的一元論という選択肢が、1970年頃までの物理主義の平均的な理解(「唯物論を採用するんであれば、心理物理法則の存在を主張するんでしょ」)を否定しつつ、別の意味で(スーパーヴィーニエンスの概念を介して規定される意味で)唯物論を守ろうとする立場である、ということを説得するためだった。法則論的還元の主張を伴うことなく(「余計なことを言わないで」)、唯物論を主張するとはどういうことか、を特徴づけるために、スーパーヴィーニエンスの概念が使われたのである。

茂木には、こういった文脈を考慮する能力が全くない。

この点で、茂木 (2006) は、心の哲学の領域に足を突っ込んでいるのだけれど、心の哲学上の有益な知見をもたらすには全く役不足である、と結論する。

もちろん、重生起という概念だけで心脳問題にブレイクスルーを起こすことは無理である。だが、「重生起」に付随する、「対応関係」ではとらえ切れていないニュアンスを何とか数学的に表現しようという努力が、何らかのブレイクスルーにつながるかもしれない。 (p. 102) 

 "supervenience" の訳語として「付随性」を採用する人もいるが、自身は「重生起」を採用する、と言った後に、
「「重生起」に付随する」という言い回しを使うの、やめてくれませんか?

そして、ほのめかしはやめてくれませんか?