どぶさらい

精神衛生のために。

茂木 (2006) 3-2 ひとつめの記事

さて、大爆笑の 3-2 にやってまいりました。

 ところで、先にニューロンの発火パターンと私たちの心の中のクオリアの間に「対応関係」があると言ったが、実は、この「対応関係」自体の性質をどう考えるかが、また、いかに対応関係というメタファーを超えるかが、心脳問題の本質に関わる重要な点である。そこで、この点を少し突っ込んで議論したい。 (p. 97)

これが、3-2 の目的のようだ。

 本来、マッハの原理が想定しているのは、物質的過程としてのニューロンの発火と、私たちの心の中のクオリアが「ぴったりと寄り添っている」という関係性の構築である。 (p. 99)

3-2 で茂木が目指すのは、こういうことだそうだ。
私に言わせれば、「寄り添っている」と述べたところで、そこでふたつのものが立てられているのは明らかなので(寄り添うのは、AとBというふたつのものである)、事態はまったく好転しないのだが。

あらかじめ、物理的空間と心の空間を用意しておいて、その間の対応を考えていたのでは、とらえきれないのである。 (p. 99)

それをやってるのはおまえだ(笑)。

対応関係のメタファーを超えて、ニューロンの発火のパターンとクオリアが「ぴったりと寄り添った」感じを表現しなければ、本当にクオリアとは何なのか、分かったことにはならないだろう。 (p. 99)

はあ、そうなんですか。

 対応関係のメタファーを超える動きの中で私が注目しているのが、ドナルド・デイヴィドソンの「重生起」(supervenience)の概念である (p. 100)

デイヴィドソンを持ち出してきました。あまり世間に知られていない論者を持ち出すことで、煙に巻こうとしている。これがただのこけおどしに過ぎないことは、以下で明らかにする。

supervenience の訳語としては、「付随性」や「重ね描き」というものがある (p. 100)

いや~これは笑った笑った。デイヴィドソンの論文の翻訳を任されるような人が、"supervenience" の訳語として、大森荘蔵が案出した言葉「重ね描き」を選んだ、だって??

Davidson (1970), "Mental Events" の議論の文脈は、「自分の立場は、志向的な心的状態は非法則的である(心理物理法則は存在しない)、というものだけれど、それでも、志向的な心的状態が物理的状態に依存ないしスーパーヴィーンする、という論点とは整合的だ」というものだった。一方、大森はというと、「立ち現われ一元論」、「重ね描き」といった議論を積み重ねて、ついには「脳と意識の無関係」を主張する人である。また、私が知る限り、大森は、デイヴィドソンの非法則論的一元論が主張するような「物理的なものへの存在論的偏り」に拘ったこともない。つまり、両者の議論の文脈はまるで異なっているのであり、このことに配慮するならば、"supervenience" を「重ね描き」と訳せるわけがないのである。

私の推測では、茂木は、"supervenience" を「重ね描き」と訳した何かを見たというより、「両者の心身関係の捉え方がなんとなく似てると思った」だけであろう。
「一知半解」というやつである。

デイヴィドソンの名前を持ち出して、何かに気づいているようなツラをする、という茂木の目論見は、かくして完全に失敗している。

3-2 の大爆笑ネタはまだ尽きていない。次の記事でまた書きます。