どぶさらい

精神衛生のために。

茂木 (2006) 3-1

さて、久々に記事を書こう。

 

 私たちの心の中の「薔薇」の表象は、大きく分けて二つの要素から成立している。

  まず、「薔薇」という視覚像を構成するクオリアの塊がある。例えば、緑の背景の中に赤い薔薇の花が咲いているとすると、緑のクオリアの中に、赤のクオリアが分布しているという、基本的な「見え」がある。このような、様々なクオリアが視野の中に並んで見えている状態が、「視覚的アウェアネス」である。つまり、より高次の形態認識や、それに基づく言語的処理、意味付け、運動が起こる前の、「世界が何となくぼんやりと見えている感じ」を指しているのである。「薔薇」という表象は、まずは、このような視覚的アウェアネスの中の空間的分布として成立している。この段階では、緑の背景の中にある赤いクオリアの塊が「薔薇」であるという情報は、「何となく薔薇に見える」という、「暗示的」なレベルなのである。 (p. 91)

 「アウェアネス」というのは、ちゃんと日本語に訳せば、「気づき」である。そして、Chalmers 的な文脈を考えると、茂木はかなり独特な言葉遣いを選択しているようだ。Chalmers に言わせれば、「気づき」の領域は、現象的意識と対比される心理的意識の領域に属するだろうから。

言葉遣いの問題を抜きにしても、茂木は、クオリアを「内的な絵」になぞらえっぱなしである。そして、われわれが見ているものがまず第一にクオリアだとした場合(1-4 で茂木はそう書いている)の、外部世界に関する懐疑などは、まったく扱わない。哲学の領域に足を突っ込んでいる(物理主義の正しさ云々について話をしている)割には、茂木の問題関心はなぜか限定的なのだ。脳科学者が心の哲学に足を突っ込むのは構わないが、やるならちゃんとやっていただきたい。ま、心の哲学をちゃんとやる能力が茂木に全くないことは、茂木 (2006) 3-2 で明らかになるけれど。

あともう一点。「視覚的アウェアネス」が「意味付け」以前のものである、という論点を厳格に受け取るならば、「何となく薔薇に見える」といった「思い」によって、その「暗示的」性格を説明することは、断固として避けるべきである。クオリアの「語りえなさ ineffability」というのはその点から来るのではないの?「概念作用なき知覚は盲目である」というカント的なフレーズは、この曰く言い難い何かへの不信の念から来たのではないの?

クオリアは、シナプスによって結ばれたニューロンの発火のクラスターの中の発火の相互作用から生まれてくるのである。 (pp. 94-96)

「の」が多すぎ。