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どぶさらい

精神衛生のために。

茂木 (2006) 2-5

さてやってきました。2-5 。

 ところが、「反応選択性のドグマ」は、この、心のモデルが満たすべき基本的な条件、すなわち、脳の中のニューロンの発火の性質によって全てを説明すべきだという条件を満足させることができない。なぜならば、そもそも、反応選択性の概念には、脳の中のニューロンの発火の性質だけでなく、ニューロンの発火と外界の事物の特徴との対応関係という、余計な仮定が含まれているからである。 (p. 80)

脳内在主義を勝手にしょい込んでいる。で、別にこれは「マッハの原理」ではなく、「認識のニューロン原理」を茂木が採用すると述べた時点で分かっていたことである。茂木は、機能主義を批判したというよりは、機能主義をそもそも排除する原理を宣言しているのである。この点は押さえておく価値がある。

で、2-5 のこれ以降の箇所がまた分かりづらいのだ。

しかし、これ以降の箇所へのコメントを避けるわけにはいかない。茂木が機能主義を批判した気になっているからくりが、ここに詰まっているからである。

 ある特定のニューロン(群)の発火パターンの反応選択性を確定するためには、それが、様々な外界の事物を提示した時に、どのような範囲の事物に対して発火するかということを明らかにしなければならない。このような対応関係を確定できるのは、心が宿っている脳と、外界の事物を同時に観測できる「第三者」の立場からのみである。 (p. 80)

うん、そうだね。それで?

たとえ、第三者の立場からは脳の中のある特定のニューロン(群)の発火パターンと、外界の事物との対応関係、すなわち、「反応選択性」を明らかにできたとしても、そのような対応関係を打ち立てることができたのは第三者の立場にいたからであって、肝心な、観察の対象になっている脳に宿る「心」にとっては、そのような対応関係はあずかり知らぬことなのである。 (pp. 80-81)

うん、一人称的視点のみから、特定のニューロン(群)の「反応選択性」を知ろうとするのは、無駄な努力だろうね。それで?

別の言い方をすると、ある人の脳の中で、ある特定のニューロン(群)があるパターンで発火していたとして、その発火パターンがどのような刺激の特徴に対して反応選択性を持つかということは、その時の脳の中のニューロンの発火だけを見ていても、決めることができない。 (p. 81)

それで?

 ところが、私たちの心の中の表象は、まさに一瞬にして脳の中のニューロン(群)の発火パターンによって、それだけに基づいて生じている。 (p. 81)

うん、それは茂木が宣言していたことだよね。それで?

だとすれば、脳の中のニューロン(群)の発火パターンに対して、心の中にどのような表象が生じるかという対応関係を、「第三者」を介した反応選択性の概念からは導くことができないということになる。 (p. 81) 

・・・んだそうな。

「第三者」、「脳に宿る「心」にとって」という言い回しの使い方について、私は茂木に同意しない。

以下では、「三人称的視点」、「一人称的視点」という言葉を使って話をすることにしよう。

「認識におけるマッハの原理」、いやそれ以前に「認識のニューロン原理」にコミットした時点で、機能主義(心的状態タイプとは、システムの内的状態とシステムの外的な事物の因果関係、さらには、システムの内的状態相互の因果関係によって定義されるという立場)が排除されることはもう分かっていたことだ。なぜって、機能主義は、心的状態と外的な事物との因果関係を考慮しているから。 

私が引っかかるのは、茂木がこれらの文章に「「第三者」を介した」といった表現を散りばめていることだ。茂木自身の立場は「「第三者」を介していない」かのような書き方なのである。

この書き方に私は真っ向から反対したい。「認識におけるマッハの原理」を採用した上で探るべき、ニューロン(群)と心の中の表象の対応関係も、三人称的視点に依存していることははっきりしている。特定のニューロン、そして、それと他の全てのニューロンの発火との関係(「認識におけるマッハの原理」が許容する説明項)を観測し記述するのは、fMRI や PET などの観測機器を駆使する脳科学の仕事であって、一人称的視点のみから観察可能なことでは全くないのである。ゆえに、「認識におけるマッハの原理」を宣言する茂木も、三人称的視点に依存しているはずなのだ。

この「三人称的視点」、「一人称的視点」にまつわる混乱を除去して、「「第三者」を介した」を「外部の事物を考慮する」に置き換えると、茂木のさきの文章は、こうなる。

 ところが、私たちの心の中の表象は、まさに一瞬にして脳の中のニューロン(群)の発火パターンによって、それだけに基づいて生じている。だとすれば、脳の中のニューロン(群)の発火パターンに対して、心の中にどのような表象が生じるかという対応関係を、外部の事物を考慮する反応選択性の概念からは導くことができないということになる。(p. 81. 改変はどぶさらいによるもの)

うん、これなら、反感はかなり軽減する。脳内在主義を繰り返し述べているだけだしね。

だが、これに則った仕方で為された研究がうまくいくかは、また別の話。

  結局、「反応選択性」の概念は、脳の中のニューロン(群)の発火パターンと、外界の事物の特徴がどのように対応しているか、それに基づいて脳がどのような情報処理を行えるかという、機能主義的な立場においては有効であるものの、脳の中のニューロンの発火から私たちの心の中の表象がどのようにして生じるかという、心脳問題の核心に関わる問題においては、ほとんど有効性をもたないと言わざるを得ないのである。 (pp. 82-83) 

 茂木が何度も同じことを言うもんだから、私ももう一回書いておこう。

茂木は、機能主義を批判したというよりは、機能主義をそもそも排除する原理を宣言しているのである。