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どぶさらい

精神衛生のために。

茂木 (2006) 1-5 ふたつめの記事

 クオリアが、これ以上分割できないというくらいの原始的な質感を指すことを理解するために、私自身の経験から、次のような例を挙げたい。 (p. 42)

この文章以下、表題にある、コーラとミルクを間違えて飲んだ時の話が続くのだが、「クオリアがこれ以上分割できない」という主張とどう関連するのか、私には明らかではない。むしろ茂木 (2006) 1-5 の中心的論点は、クオリアの自存性(とでも言えばいいのだろうか)、つまり、クオリアはそれを受け取る主体の認識から独立である、という論点ではないか。そして、それは極めて大きな含みがある。これについては当記事で後述する。

  さて、私が、口の中に入った液体の味と香りがどのような物質のそれか分からないで、パニックに陥っていた時、私が心の中に感じていた味と香り、それが、純粋なミルクの味と香りのクオリアなのである。 (p. 44)

認識されないクオリアを茂木はあっさりと認めている。このことの含みは大変大きい。クオリアが主体に与えられることと、クオリアのあるなしについての主体の認識、このふたつが乖離しうるということは、クオリアの不可謬性(或る種の論者は確かにそれを主張している)と真っ向から対立するものである。そして、クオリアについての三人称的理論の構築を茂木に強いるものでもある。

それはこういうことである。私は世界がどのように現れているかをさまざまに報告することができるが、茂木の先の主張によれば、私がいかなる現象的判断を誠実に為したとしても、それを完全に信頼することはできない。私の現象的判断には誤りの可能性があるのだから。すると、私の現象的判断が正しいとか間違っているとか言うためには、私の一人称的視点を介した現象的判断とは全く独立に、私の享受しているクオリアが確定していなければならない。よって、クオリアについての三人称的アプローチは、茂木にとっても不可避なのである。

茂木がこだわっているのは、クオリアの一人称的な性格であり、それこそが今日の自然科学で解明できない謎である、ということを何度も何度も述べているが、それと同時に、三人称的観点からクオリアを(ひとが何を感じているかを)扱うことも、茂木にとって義務なのである。

 主観性の問題は、第4章以降の議論の中心テーマとなる。「主観性」を巡る一連の議論は、第8章で、クオリアと並んで私たちの心を理解する上で本質的なある概念を提出することで、結実することになるだろう。 (p. 47)

第8章、心を理解するための「新しい」概念が出てくるんだって!さあみんな、楽しみにして待っていよう!