どぶさらい

精神衛生のために。

茂木 (2006) 1-4

私たちの心は、私たちの脳の中のニューロンの活動に伴って生まれている。私たちの心に見えるものは、ニューロンの発火に支えられている。これが、心の随伴現象説である。  (p. 34)

 随伴現象説の定式化が雑すぎる。私の理解では、随伴現象説のポイントは、随伴現象とされている当の現象が、物理的世界に何ら因果的な影響をもたない、という点だ。「伴って生まれている」とか「支えられている」という言い回しでは、このポイントを表現できていない。

 心に見えるもの、心に見えないものとは、普通の言い方をすれば、「意識」と「無意識」である。だが、「意識」と「無意識」という言い方は、抽象的だ。また、あまりにも、手あかが付いている感がある。私にとっての、私自身を含むこの宇宙が、「心に見えるもの」、「心に見えないもの」という二つのカテゴリーから出来ていること、「心に見えるもの」が、「私」の範囲を決定していること、そして、私の一部である「心に見えないもの」のニューロンの発火によって、私の「心の見えるもの」は支えられているらしいこと。このことの驚異を、もう一度深く味わってみるべきだと思うのである。 (pp. 34-35) 

 ひとつの段落をまるまる引用したが、なんとも悪文である。最初の方では、心に見えるものと心に見えないものとを、より適切に表現する言葉を探している(「意識」と「無意識」という言葉は退けられている)ように読めるが、後の方では、単なる「感傷のすすめ」になってしまっている。(そして、「自分は当の驚異を味わっている」と言いたげだ。)そもそも「心に見えるもの」という句が私は気に入らないが。

私たちの心に見えるものは、様々な表象、それを構成する様々なクオリアからなっている。 (p. 36)

クオリアは表象を構成する」と言っている。私からすれば驚くべき言葉遣いである。

 私たちは、私たちの心の中にあるクオリアを通して、私たち自身を、そして私たちの外に広がる広大な世界を「感じている」のである。つまり、

 心に見えるものは、クオリアからできている。

ということができるのである。 (pp. 36-37)

極めていかがわしい文章である。

「目の前にキーボードが見える。その視覚経験には現象的質(クオリア)が伴う。」

この言い回しならまだ分かる。この場面において、見られているのはあくまでキーボードである。しかし、茂木によれば、われわれが見ているのはクオリアだという。茂木がこの言い回しをとったことによって、私が(クオリアではなく)実在のキーボードを見ることが一体どうしてできるのか、説明を求める権利が生じる。当然ながら、キーボードは「クオリアの塊」などではなく、物理的世界の対象である。クオリアの住まう世界としての心を一方に立て、他方、クオリアを生じさせる物理的世界を立てる、というのは、伝統的な二元論の構図そのものであり、その構図に対しては、山のような批判が為されてきた。茂木はそれに答える用意があるのだろうか。