どぶさらい

精神衛生のために。

茂木 (2006) 1-1

カーテン越しに差し込んでくる朝の日の光。
壁紙のトマトの絵の赤い色。
冷蔵庫の冷却機のブーンという低い音。
時計のカチカチという音。
ふとんの中のぬくもり。
時間と空間の枠組みの中で、「私は今、ここにいる」という感覚。
心地よい空腹感。

これらの表象は、さまざまな「クオリア」(qualia)に満ちている。 (p. 16) 

 「表象はクオリアに満ちている」この表現が分からん。そして、「私は今、ここにいる」ことのクオリアというのはもっと分からん。「何をクオリアとして認めるか」についてさえ議論があることを茂木はまったく踏まえていないのである。この点については後々の記事でも触れる。

これらのクオリアは、従来、客観的な自然法則を構成する上で使われてきた長さ、面積、質量、電荷といった物理的な量とは何の関係もない、それぞれユニークで鮮明な存在感を持っている。 (pp. 16-17)

 シナプスニューロンといったものの活動は物理的に測定できる。これらとクオリアの関係・架橋法則を見つけるのが茂木の路線ではないのか。心脳問題をこう定式化した後、茂木はこれをどう解こうというのだ。クオリアの問題をそもそも解けるように定式化する気がないのではないかと思わせる一節である。

そのような表象を結合する存在として「私」がある。 (p. 17)

 ぜんぜん分からん。

私たちが知る限り、確実に「心」を持っていると言えるのは、私たち人間の脳だけだ。 (p. 18) 

 他人の心に関する懐疑には関心がないらしい。後々の記事でも触れることになるが、他人にクオリアがあることを確かめるときの茂木の手続きは、あまりに素朴すぎる。Chalmers の本を読んだり、Chalmers 本人と議論をしたと称する茂木が、他人がゾンビである可能性をなぜかくも無視できるのか、さっぱり分からない。