どぶさらい

精神衛生のために。

茂木 (2006) 1-5 ひとつめの記事

さて、1-5 にたどり着いた。ここはかなりおかしなことが書いてある箇所だ。

 クオリアは、これ以上分割できないという私たちの心の中の表象の構成要素である。

悪文。おそらくは、

クオリアは、私たちの心の中の表象の、これ以上分割できない構成要素である。」

と言いたいのだろう。明確な文章を書いてほしい。

[・・・]言葉のラベル付けの体系の違いは、必ずしも、イヌイットと日本人の間で、心の中で見る白い色のクオリアのレパートリーが異なることを意味してはいない。

クオリアのレパートリー」という句は茂木 (2006) で初めて出会った表現だ。

 日本人が「白」というラベルを貼っている色には、微妙な色彩の変化がある。ただ、私たちは、そのような変化する色のそれぞれに、別の言葉のラベルを用意しないだけのことである。[中略]そのことは、例えば、心理物理学的に見た白い色の識別能力を、日本人とイヌイットの集団で比較してみれば分かる。

 クオリアのレパートリーの違いのあるなしを実験で確かめている。これには最初に読んだときかなりびっくりした。一人称的な現れがあるかないか、他人がどんなクオリアを享受しているか、平然と実験で確かめている。茂木は、他人がゾンビでないことを実験で確かめているのである!本当にこの男は Chalmers の本を読んだのだろうか?逆転スペクトルの懐疑に思いを巡らせたことがあるのだろうか?こんな奴にクオリアについての入門書を書かれてはたまらない。

いついかなる状況において白い色のクオリアが生じるか、茂木は既に知っているのだろう。だが、どうやって知ったのだ?クオリアは主観的な感覚であり、他人からは接近不可能なものであるはずなのに。

そしてもう一点。この実験手続きは、平凡な機能主義的手続きである。人間というシステムがもつ世界の事物の識別能力をテストすることによって、クオリアのレパートリーのあるなしを決定しているのだから。茂木 (2006) 第2章で、機能主義をあからさまに批判している茂木が、なぜこんなテストでクオリアのあるなしを決定できると考えているのか。さっぱり分からない。

茂木 (2006) 1-5 は問題的な箇所が多すぎるので複数回に分けよう。

茂木 (2006) 1-4

私たちの心は、私たちの脳の中のニューロンの活動に伴って生まれている。私たちの心に見えるものは、ニューロンの発火に支えられている。これが、心の随伴現象説である。  (p. 34)

 随伴現象説の定式化が雑すぎる。私の理解では、随伴現象説のポイントは、随伴現象とされている当の現象が、物理的世界に何ら因果的な影響をもたない、という点だ。「伴って生まれている」とか「支えられている」という言い回しでは、このポイントを表現できていない。

 心に見えるもの、心に見えないものとは、普通の言い方をすれば、「意識」と「無意識」である。だが、「意識」と「無意識」という言い方は、抽象的だ。また、あまりにも、手あかが付いている感がある。私にとっての、私自身を含むこの宇宙が、「心に見えるもの」、「心に見えないもの」という二つのカテゴリーから出来ていること、「心に見えるもの」が、「私」の範囲を決定していること、そして、私の一部である「心に見えないもの」のニューロンの発火によって、私の「心の見えるもの」は支えられているらしいこと。このことの驚異を、もう一度深く味わってみるべきだと思うのである。 (pp. 34-35) 

 ひとつの段落をまるまる引用したが、なんとも悪文である。最初の方では、心に見えるものと心に見えないものとを、より適切に表現する言葉を探している(「意識」と「無意識」という言葉は退けられている)ように読めるが、後の方では、単なる「感傷のすすめ」になってしまっている。(そして、「自分は当の驚異を味わっている」と言いたげだ。)そもそも「心に見えるもの」という句が私は気に入らないが。

私たちの心に見えるものは、様々な表象、それを構成する様々なクオリアからなっている。 (p. 36)

クオリアは表象を構成する」と言っている。私からすれば驚くべき言葉遣いである。

 私たちは、私たちの心の中にあるクオリアを通して、私たち自身を、そして私たちの外に広がる広大な世界を「感じている」のである。つまり、

 心に見えるものは、クオリアからできている。

ということができるのである。 (pp. 36-37)

極めていかがわしい文章である。

「目の前にキーボードが見える。その視覚経験には現象的質(クオリア)が伴う。」

この言い回しならまだ分かる。この場面において、見られているのはあくまでキーボードである。しかし、茂木によれば、われわれが見ているのはクオリアだという。茂木がこの言い回しをとったことによって、私が(クオリアではなく)実在のキーボードを見ることが一体どうしてできるのか、説明を求める権利が生じる。当然ながら、キーボードは「クオリアの塊」などではなく、物理的世界の対象である。クオリアの住まう世界としての心を一方に立て、他方、クオリアを生じさせる物理的世界を立てる、というのは、伝統的な二元論の構図そのものであり、その構図に対しては、山のような批判が為されてきた。茂木はそれに答える用意があるのだろうか。

茂木 (2006) 1-3

現在のところ心は、脳の中のニューロンの発火に伴って生じる随伴現象だと見なされているという点にある。  (p. 30)

 随伴現象説が主流なんだとさ。知らんけど。

私たちの心の中に、どのような表象が生じているかを決定するためには、どのようなニューロンの発火パターンが生じているかという情報だけで必要にして十分だということになる。これが、「認識のニューロン原理」である(第2章参照)。 (p. 30)

神経生理学がどれだけこの原理を支持する証拠を提示できているのか。私は知らない。だが、この原理の真偽も、内在主義を支持する者の間で争われる事柄に過ぎないので、当ブログの内容には大して影響しない。

「心」が随伴現象であるということは、「心」があってもなくても、脳の中のニューロンの振る舞い、その発火パターンは変わらないということになる。 (p. 31)

現在のところ、私も「心は随伴現象である」という通説に従っている。 (p. 33)

ここまで言っていながらも、茂木は、ゾンビの可能性にひとつも気づいていない。私には理解不能な箇所である。

 

 

 

茂木 (2006) 1-2

この本で一貫して論じるように、私たちの意識、心の働きは、全て、私たちの脳の中のニューロンの働きだからである。  (p. 24)

 この本では、内在主義はあくまで前提されているのであるから、この本で内在主義を論証しているかのような書き方はミスリーディングである。

私たち一人一人は、自分の心の中に起こる表象については熟知している。 (p. 28)

茂木の「表象」という言葉の使い方にはついていけない。

 

茂木 (2006) 1-1

カーテン越しに差し込んでくる朝の日の光。
壁紙のトマトの絵の赤い色。
冷蔵庫の冷却機のブーンという低い音。
時計のカチカチという音。
ふとんの中のぬくもり。
時間と空間の枠組みの中で、「私は今、ここにいる」という感覚。
心地よい空腹感。

これらの表象は、さまざまな「クオリア」(qualia)に満ちている。 (p. 16) 

 「表象はクオリアに満ちている」この表現が分からん。そして、「私は今、ここにいる」ことのクオリアというのはもっと分からん。「何をクオリアとして認めるか」についてさえ議論があることを茂木はまったく踏まえていないのである。この点については後々の記事でも触れる。

これらのクオリアは、従来、客観的な自然法則を構成する上で使われてきた長さ、面積、質量、電荷といった物理的な量とは何の関係もない、それぞれユニークで鮮明な存在感を持っている。 (pp. 16-17)

 シナプスニューロンといったものの活動は物理的に測定できる。これらとクオリアの関係・架橋法則を見つけるのが茂木の路線ではないのか。心脳問題をこう定式化した後、茂木はこれをどう解こうというのだ。クオリアの問題をそもそも解けるように定式化する気がないのではないかと思わせる一節である。

そのような表象を結合する存在として「私」がある。 (p. 17)

 ぜんぜん分からん。

私たちが知る限り、確実に「心」を持っていると言えるのは、私たち人間の脳だけだ。 (p. 18) 

 他人の心に関する懐疑には関心がないらしい。後々の記事でも触れることになるが、他人にクオリアがあることを確かめるときの茂木の手続きは、あまりに素朴すぎる。Chalmers の本を読んだり、Chalmers 本人と議論をしたと称する茂木が、他人がゾンビである可能性をなぜかくも無視できるのか、さっぱり分からない。

茂木 (2006) 第1章 心は脳内現象である (pp. 13-47) 目次整理

第1章の目次整理。

 

心も自然法則の一部である (pp. 14-21)
1-1 と略記

なぜ、心の科学が誕生しないのか? (pp. 22-28)
1-2 と略記

心は存在するのか? (pp. 29-33)
1-3 と略記

心に見えるもの、心に見えないもの (pp. 34-39)
1-4 と略記

コーラとミルクを間違えて飲む (pp. 40-47)
1-5 と略記

茂木 (2006) プロローグ (pp. 8-12)

私たちの「心」の全ては、私たちの脳のニューロンの発火に伴って起こる「脳内現象」に過ぎない。 (p. 8) 

 心的なもの全てに関する内在主義の宣言である。

だが、この仮説がいかに驚くべきものか、その意味の広がりを感じることはそれほどやさしくない。 (p. 8) 

 「意味の広がり」という句が鼻につくが、この程度で苛立っていては当ブログの記事は書けない。

そしてもう一点。茂木は、いわゆる心身問題への「驚き」を味わっていることをもって、自分を特権化しようとしているふしがあるのだ。こういう箇所は、茂木 (2006) の随所に見られる。

 心が頭蓋骨の中の脳味噌に宿っているなんて、そんなこと当たり前じゃないか。そんなことを、三十過ぎになるまで知らなかったのか? そのように言う人もいるかもしれない。

 だが、「知る」ことと「感じる」ことは違うのだ。 (p. 10)

 ほらね。

 私たちの心の中の表象が、全て脳のニューロンの発火として生じるということを認めることは、必ずしも、「私」の外の客観的世界の存在を否定する「独我論」に結び付くわけではない。(中略)確実なのは、そのような広大な世界も、私の心の中に 表象として現れる時には、それは、脳の中のニューロンの活動に支えられた現象に過ぎないということなのだ。 (pp. 11-12)

 「表象」という言葉が使われている。この言葉は、私にとって日常語ではないし、心の哲学の文脈においては、決して何気なく使ってはいけないはずの言葉なのだが、この言葉は茂木 (2006) において何度も何気なく使われるので注意。

ここにはまた、茂木 (2006) の不可解な点がよく表れている。茂木は、いわゆる心身問題に「驚け!」と言ってくる割には、その問題をかなり限定的に捉えているようなのだ。この本では、他我についての懐疑や、いわゆる「哲学的ゾンビ」の問題は、驚くほど出てこない。「驚け!」と言っておいて驚き切れていないのは茂木の方だと私は考える。

茂木健一郎に「ノー」と言う

当ブログの目的は、この初回投稿記事のタイトル通りである。

 

茂木健一郎という人物は、テレビその他のメディアで盛んに活動している。しかし、学問的には全く評価に値しない。心の哲学の専門家が茂木の本について話をしないのは、そもそも時間を割くに値しないからである。それに対して、世間の多くの人々は、茂木が心について「真面目に」*1書いたものには関心がなく、ただ彼の書き散らしたものを何気なく消費しているだけである。これらの条件のもとで茂木は、自身の生活を立て、学問や芸術や世事についてコメントする立場、つまり、「お説教を垂れる側」に至ったわけである。

 

このことが私には腹立たしい。

 

そして、この怒りを世間に公開し、

「この男に金や評価を与えるのは不合理である」

ということを納得してもらうために、当ブログは存在する。

 

これだけのことをやるためには、きちんとした根拠というものが要求されるだろう。そのために私は、

茂木健一郎 (2006) 、『クオリア入門 心が脳を感じるとき』、ちくま学芸文庫

ブックオフで購入した(シールには450円とある)。そして、十全な批判を終えることができたら、この本を燃えるゴミに捨てようと思う。読むに値しない本が自室にあることが恥ずかしいからだ。そして、茂木の無内容なおしゃべりを封殺することさえできれば、それ以上この男に関わるのは、私の限られた時間の無駄遣いだからだ。

*1:私が括弧をつけたのは、私にとっては真面目とは到底思えないからである。