道草。『これが応用哲学だ!』に収録された茂木の文章がいかにクソであるか。
さて、今回は道草の回である。
ただし、「茂木健一郎に「ノー」と言う」点においてはいつもと変わりはない。
戸田山和久・美濃正・出口康夫(編)、『これが応用哲学だ!』、大隅書店、2012。
(Kindle 版)
この文章から覗える茂木の(私をイライラさせる)自己認識を書き出してみよう。
・「ブロートヴィッセンシャフト」なんていうドイツ語が使える。
・自分は自然科学者である。
・自分は哲学なんて要らないと言っていない分、頭がいい。
・横文字が使える。
・自然科学の中でどんな成果が出ているか知っている。
・アインシュタインの偉さについて語れる。
・戸田山を皮肉るくらいのことはできる。
・クオリアの問題を自分はわかっているし、その問題と格闘している。
・「論理的に確信しているんです」
・ブートストラッピングなんて横文字使えるオレってすごい。
・「相互作用同時性の原理は、マッハの原理から、論理的・必然的に導かれます」
・ツイスターとかローレンツ不変とか語れちゃってるオレってすごい。
・直観的に「分かっている」
・「俺」って一人称を平然と使う。
・「解決」ではなく「ソリューション」って言えるオレってすごい。
・「必然性と偶然性が入り混じった」なんてムズカシイことも語れるぜ。
・「確率的アプローチ」を「セクシーじゃない」なんて一言で片付けてやるぜ。
・「サブジェクト」「ビヘイヴィア」「エンピリカル」「フォーミュレーション」、
どんどん横文字使っていくぜ。
・セルフの問題、なんてわかってるぜ。
・「身体のボーダーっていうのは非常にダイナミックに変化して、われわれはセンサリー・モーター・コーディネーションと言っているんですが、自分がどういう風にアクションして、それがセンサー・フィードバックでどう来るかということによって、コンティンジェンシーのストラクチャーを通して、セルフは変化するんです。」
・郡司ペギオ幸夫の名前とか出しちゃうぜ。
・オレってエキセントリックだぜ。
すげえ、書き出すだけでホントムカつく。
私がムカついた理由、説明する必要がある?
応用哲学会さん、何を思って茂木を呼んだんですか?
茂木 (2006) 3-3 みっつめの記事
さて、記事を書きますか、精神衛生のために。
茂木健一郎が路頭に迷ってくれれば、私の苛立ちはおさまるのだが。
このように、私たちの心の中にクオリアを生じさせるニューロンの発火のクラスターは有限の物理的時間が経過しないと形成されないのに、このクラスターの上に重生起するクオリアは、私たちの心の中の「瞬間」に感じられる。例えば、視野の中に赤のクオリアが感じられる時、それは、ある「心理的な瞬間」に感じられるのであって、物理的時間の経過とともに「徐々に」感じられるのではない。ニューロンの発火が、一つのニューロンから次のニューロンへとシナプスを通して伝わる過程で、たとえ有限の物理的時間が経過したとしても、心理的な時間の中では、それは一瞬に「潰れている」。例えば、「赤」のクオリアを生起させるニューロンの発火のクラスターが形成されるのに一〇〇ミリ秒の時間が経過しても、私たちはその赤のクオリアを、心理的時間の中ではある「瞬間」に感じるのである。 (pp. 104-106)
私がこの文章を読む限り、「クオリアは私たちの心の中の「瞬間」に感じられる」と述べる茂木の根拠は、「一人称的視点からそう思われる」ことであろう。しかし、物理的な時間一〇〇ミリ秒は心理的時間の中ではなかったことにされる、ということを「一人称的視点から、そう思われるでしょう?」と肩をポンと叩くだけで納得させる、という茂木の行いを、少なくとも私はやろうとは思わない。なぜなら、私の一人称的視点から、心理的な「いま」を反省してみよ、と言われてちょっとやってみる間に、一〇〇ミリ秒なんてすぐ経過してしまうからである。神経生理学の内部で問題になるオーダーの時間がいかに短いか、ということを曖昧にしつつ、心理的な「いま」を反省する際の時間の長さを(本当はある程度の幅があるのに)「瞬間」に置き換えてしまうところに、茂木の詐欺師性が表れている。
心理的な時間が物理的な時間の上に重生起する過程は、ニューロンの発火のクラスターの上にクオリアが重生起する過程と一体となって起こるはずである。 (p. 106)
3-3 ひとつめの記事、で問題にした表現が上記引用箇所で現れている。この文章を書いている時点で、哲学科の大学院修士課程には受からないだろう(笑)。
茂木の「重生起」の原語はsupervenienceであることを思い出そう。
「心理的な時間は物理的な時間にスーパーヴィーンする」
これは、
良く言って「トリヴィアルに真」、
悪く言って「あなたスーパーヴィーニエンスの概念を分かってる?」
と言われるレベルだろう。
そして極め付けに、AがBにスーパーヴィーンする「過程」などという言葉遣いも出てくる。端的に、噴飯ものである。こんな本について茂木は、
[本書を]もう一度読み返したが、自分自身でも刺激されるところが多かった。脳と心の関係を考える上で、現在 [=2006] でも意義深い論考となっていると自負する。(文庫版へのあとがき、p. 290 。[ ] 内はどぶさらいによる。)
と言っているから、2006年になってもこの言葉遣いの問題点に気づいていない、ということである。心身問題の泥沼に本気で捕われた人間なら、関連書籍をちゃんと読み、誤りを正せるのだが、茂木センセイにはそんな気は更々ないらしい。端的に、死ね!これまでの稼ぎを全てUNISEFに寄付して、路頭に迷え!
茂木 (2006) 3-3 ふたつめの記事(というかため息)
正直言って、いい加減疲れた。スーパーヴィーニエンスの概念に対して、ありもしない「ニュアンス」を読み込んで、心と脳について論じたかのようなツラをする、という茂木 (2006), 3-2 のやり口を見たあたりで、どうでもよくなってきたのである。こんな文章は、「出来の悪い学部生が思いつきを並べたもの未満」である。心の哲学の議論に真面目に参入しようとしている先輩が一人居れば、コテンパンに「指導される」(叩かれる)代物だからだ。
それにしても、応用哲学会は、こんなレベルに留まっている茂木をなぜシンポジウムに呼んだのか。茂木を某雑誌上で「諫めた」ことのある伊勢田哲治氏が大きく関与している学会なのに。「自由さ」、「風通しの良さ」、「ポップさ」でもアピールしたかったのか。しかし、茂木 (2006) のような議論もどきを許容することが、いいこととは全く思えない。
茂木 (2006) 3-3 ひとつめの記事
以上で見たように、「対応関係」というメタファーの中には、時間は、明示的な形では含まれていない。一方、「重生起」は、時間を明示的に含んだ、「ニューロンの発火パターン」と「クオリア」がぴったりと寄り添った関係を表す概念なのである。 (p. 103)
3-2 について私が書いたふたつの記事で示したように、supervenience をこのような概念として捉えるのは誤りである。
以下では、「対応関係」というよりは「重生起」というメタファーでニューロンの発火のクラスターのパターンとクオリアの関係を考えていく。 (p. 103)
「心的なものは物的なものにスーパーヴィーンする」この言い回しはメタファーではないです。
心理的な時間が物理的な時間の上に重生起する過程は、ニューロンの発火のクラスターの上にクオリアが重生起する過程と一体となって起こるはずである。従って、心理的な時間と物理的な時間の間の関係は、ニューロンの発火のクラスターの上にクオリアが重生起するというモデルと整合性を持つものでなければならない。 (p. 106)
「心理的な時間が物理的な時間にスーパーヴィーンする」!
「AがBにスーパーヴィーンする<過程>」!
もう、全然わかりません。
夜遅いし疲れたからまた後日追記します。
茂木 (2006) 3-2 ふたつめの記事
さて、さらに茂木に笑わせてもらおう。
(supervenience の訳語としては、「付随性」や「重ね描き」というものがあるが、ここで私が注目している原語のニュアンスは伝わってこない。そこで、私は、対応関係のメタファーを超えるための概念として、ここでは「重生起」という訳語を用いる。「重生起」という訳語でも、原語のニュアンスは十分に伝わらないから、本来は supervenience という言葉をそのまま用いた方がいいかもしれない) (p. 100)
supervenience の概念に注目する理由は、その言葉のニュアンスゆえ (?) らしい。
一九七〇年に書かれた論文の中で、デイヴィドソンは、「重生起」の概念を、次のように説明している。
心の属性は、何らかの意味で、物理的な属性に依存、ないしはそれに「重生起」される。このモデルの下では、物理的状態が同じなのに、心の状態が異なるということはあり得ない。また、心の状態が変化する場合には、必ず物理的状態も変化しなければならない。 (p. 100)
訳への細かい指摘はともかくとして(Davidson (1970) の原文に忠実とは言えない、とか)、茂木がいったん "supervenience" をこのように解した、ということを押さえよう。(そうしておくと、後で余計に笑うことができるから。)
それでも、私が、対応関係というよりは、「重生起」という概念が、ニューロンの発火のクラスターのパターンとクオリアの間の関係を記述するのに有効だと考える理由は、「重生起」には、「対応関係」には含まれていない次のようなニュアンスがあるからだ。 (p. 101)
なんで、スーパーヴィーニエンスの概念を持ち上げるのに、その言葉のニュアンスを持ち出すのか理解不能だが、もうすこし茂木の言っていることを追ってみよう。
(1) 「対応関係」まずは独立したものとして二つの集合を措定した上で、それぞれの集合の中の要素の間の関係を考える。それに対して、「重生起」の方は、二つ属性が「ぴったりと寄り添った」ものとして、関連性を持っているという感じがある。 (pp. 101-102)
こんなことで持ち上げられても (笑)。
(2) 「対応関係」には、時間が明示的には含まれていない。一方、「重生起」の場合は、一方(例えばニューロンの発火)が、他方(例えばクオリア)と密接に連動して、まさに今生じつつあるというニュアンスがある。その意味で、時間が明示的に含まれている。 (p. 102)
このニュアンスを、茂木自身がさきに為した説明のどこに読み込むことができるのか、さっぱり分からない。
(3) 以上のことからも分かるように、「重生起」の概念には、因果性が本質的に取り込まれている。一方、「対応関係」は、本来的に因果性を含まない。 (p. 102)
全然わかりません。世間が知らない言葉なら、自分の本の展開に都合のいいニュアンスをいくら読み込んでもいい、と思ったら大間違いだ。
スーパーヴィーニエンスの概念は、専門的・技術的な概念である。
「そうしたスーパーヴィーニエンスは、全ての物理的側面において同じでありながら何らかの心的側面において異なっているということはありえないということ、あるいは、或る対象が何らかの物理的側面を変化させることなしに何らかの心的側面を変化させることはありえないということ、を意味するものと理解することができるかもしれない。」(Davidson (1970))
あくまでこの定式化に忠実であるべきだ。(「スーパーヴィーニエンス」という語の「ニュアンス」が問題になるようになってしまったら、その語は、世間に浸透したと言えると同時に、哲学上の専門用語たりえなくなった、ということである。)
スーパーヴィーニエンスの概念は、とりわけ、「余計なことを言わないようにするための」概念だ。Davidson (1970) がこの概念を持ち出したのも、自身が採用する非法則論的一元論という選択肢が、1970年頃までの物理主義の平均的な理解(「唯物論を採用するんであれば、心理物理法則の存在を主張するんでしょ」)を否定しつつ、別の意味で(スーパーヴィーニエンスの概念を介して規定される意味で)唯物論を守ろうとする立場である、ということを説得するためだった。法則論的還元の主張を伴うことなく(「余計なことを言わないで」)、唯物論を主張するとはどういうことか、を特徴づけるために、スーパーヴィーニエンスの概念が使われたのである。
茂木には、こういった文脈を考慮する能力が全くない。
この点で、茂木 (2006) は、心の哲学の領域に足を突っ込んでいるのだけれど、心の哲学上の有益な知見をもたらすには全く役不足である、と結論する。
もちろん、重生起という概念だけで心脳問題にブレイクスルーを起こすことは無理である。だが、「重生起」に付随する、「対応関係」ではとらえ切れていないニュアンスを何とか数学的に表現しようという努力が、何らかのブレイクスルーにつながるかもしれない。 (p. 102)
"supervenience" の訳語として「付随性」を採用する人もいるが、自身は「重生起」を採用する、と言った後に、
「「重生起」に付随する」という言い回しを使うの、やめてくれませんか?
そして、ほのめかしはやめてくれませんか?
茂木 (2006) 3-2 ひとつめの記事
さて、大爆笑の 3-2 にやってまいりました。
ところで、先にニューロンの発火パターンと私たちの心の中のクオリアの間に「対応関係」があると言ったが、実は、この「対応関係」自体の性質をどう考えるかが、また、いかに対応関係というメタファーを超えるかが、心脳問題の本質に関わる重要な点である。そこで、この点を少し突っ込んで議論したい。 (p. 97)
これが、3-2 の目的のようだ。
本来、マッハの原理が想定しているのは、物質的過程としてのニューロンの発火と、私たちの心の中のクオリアが「ぴったりと寄り添っている」という関係性の構築である。 (p. 99)
3-2 で茂木が目指すのは、こういうことだそうだ。
私に言わせれば、「寄り添っている」と述べたところで、そこでふたつのものが立てられているのは明らかなので(寄り添うのは、AとBというふたつのものである)、事態はまったく好転しないのだが。
あらかじめ、物理的空間と心の空間を用意しておいて、その間の対応を考えていたのでは、とらえきれないのである。 (p. 99)
それをやってるのはおまえだ(笑)。
対応関係のメタファーを超えて、ニューロンの発火のパターンとクオリアが「ぴったりと寄り添った」感じを表現しなければ、本当にクオリアとは何なのか、分かったことにはならないだろう。 (p. 99)
はあ、そうなんですか。
対応関係のメタファーを超える動きの中で私が注目しているのが、ドナルド・デイヴィドソンの「重生起」(supervenience)の概念である (p. 100)
デイヴィドソンを持ち出してきました。あまり世間に知られていない論者を持ち出すことで、煙に巻こうとしている。これがただのこけおどしに過ぎないことは、以下で明らかにする。
supervenience の訳語としては、「付随性」や「重ね描き」というものがある (p. 100)
いや~これは笑った笑った。デイヴィドソンの論文の翻訳を任されるような人が、"supervenience" の訳語として、大森荘蔵が案出した言葉「重ね描き」を選んだ、だって??
Davidson (1970), "Mental Events" の議論の文脈は、「自分の立場は、志向的な心的状態は非法則的である(心理物理法則は存在しない)、というものだけれど、それでも、志向的な心的状態が物理的状態に依存ないしスーパーヴィーンする、という論点とは整合的だ」というものだった。一方、大森はというと、「立ち現われ一元論」、「重ね描き」といった議論を積み重ねて、ついには「脳と意識の無関係」を主張する人である。また、私が知る限り、大森は、デイヴィドソンの非法則論的一元論が主張するような「物理的なものへの存在論的偏り」に拘ったこともない。つまり、両者の議論の文脈はまるで異なっているのであり、このことに配慮するならば、"supervenience" を「重ね描き」と訳せるわけがないのである。
私の推測では、茂木は、"supervenience" を「重ね描き」と訳した何かを見たというより、「両者の心身関係の捉え方がなんとなく似てると思った」だけであろう。
「一知半解」というやつである。
デイヴィドソンの名前を持ち出して、何かに気づいているようなツラをする、という茂木の目論見は、かくして完全に失敗している。
3-2 の大爆笑ネタはまだ尽きていない。次の記事でまた書きます。
茂木 (2006) 3-1
さて、久々に記事を書こう。
私たちの心の中の「薔薇」の表象は、大きく分けて二つの要素から成立している。
まず、「薔薇」という視覚像を構成するクオリアの塊がある。例えば、緑の背景の中に赤い薔薇の花が咲いているとすると、緑のクオリアの中に、赤のクオリアが分布しているという、基本的な「見え」がある。このような、様々なクオリアが視野の中に並んで見えている状態が、「視覚的アウェアネス」である。つまり、より高次の形態認識や、それに基づく言語的処理、意味付け、運動が起こる前の、「世界が何となくぼんやりと見えている感じ」を指しているのである。「薔薇」という表象は、まずは、このような視覚的アウェアネスの中の空間的分布として成立している。この段階では、緑の背景の中にある赤いクオリアの塊が「薔薇」であるという情報は、「何となく薔薇に見える」という、「暗示的」なレベルなのである。 (p. 91)
「アウェアネス」というのは、ちゃんと日本語に訳せば、「気づき」である。そして、Chalmers 的な文脈を考えると、茂木はかなり独特な言葉遣いを選択しているようだ。Chalmers に言わせれば、「気づき」の領域は、現象的意識と対比される心理的意識の領域に属するだろうから。
言葉遣いの問題を抜きにしても、茂木は、クオリアを「内的な絵」になぞらえっぱなしである。そして、われわれが見ているものがまず第一にクオリアだとした場合(1-4 で茂木はそう書いている)の、外部世界に関する懐疑などは、まったく扱わない。哲学の領域に足を突っ込んでいる(物理主義の正しさ云々について話をしている)割には、茂木の問題関心はなぜか限定的なのだ。脳科学者が心の哲学に足を突っ込むのは構わないが、やるならちゃんとやっていただきたい。ま、心の哲学をちゃんとやる能力が茂木に全くないことは、茂木 (2006) 3-2 で明らかになるけれど。
あともう一点。「視覚的アウェアネス」が「意味付け」以前のものである、という論点を厳格に受け取るならば、「何となく薔薇に見える」といった「思い」によって、その「暗示的」性格を説明することは、断固として避けるべきである。クオリアの「語りえなさ ineffability」というのはその点から来るのではないの?「概念作用なき知覚は盲目である」というカント的なフレーズは、この曰く言い難い何かへの不信の念から来たのではないの?
クオリアは、シナプスによって結ばれたニューロンの発火のクラスターの中の発火の相互作用から生まれてくるのである。 (pp. 94-96)
「の」が多すぎ。
茂木 (2006) 2-6
機能主義の終焉
(笑)。
茂木 (2006) 2-5 についての記事で書いたことを繰り返そう。茂木は、機能主義を批判したというよりは、機能主義をそもそも排除する原理を宣言しているのである。
茂木 (2006) 2-5
さてやってきました。2-5 。
ところが、「反応選択性のドグマ」は、この、心のモデルが満たすべき基本的な条件、すなわち、脳の中のニューロンの発火の性質によって全てを説明すべきだという条件を満足させることができない。なぜならば、そもそも、反応選択性の概念には、脳の中のニューロンの発火の性質だけでなく、ニューロンの発火と外界の事物の特徴との対応関係という、余計な仮定が含まれているからである。 (p. 80)
脳内在主義を勝手にしょい込んでいる。で、別にこれは「マッハの原理」ではなく、「認識のニューロン原理」を茂木が採用すると述べた時点で分かっていたことである。茂木は、機能主義を批判したというよりは、機能主義をそもそも排除する原理を宣言しているのである。この点は押さえておく価値がある。
で、2-5 のこれ以降の箇所がまた分かりづらいのだ。
しかし、これ以降の箇所へのコメントを避けるわけにはいかない。茂木が機能主義を批判した気になっているからくりが、ここに詰まっているからである。
ある特定のニューロン(群)の発火パターンの反応選択性を確定するためには、それが、様々な外界の事物を提示した時に、どのような範囲の事物に対して発火するかということを明らかにしなければならない。このような対応関係を確定できるのは、心が宿っている脳と、外界の事物を同時に観測できる「第三者」の立場からのみである。 (p. 80)
うん、そうだね。それで?
たとえ、第三者の立場からは脳の中のある特定のニューロン(群)の発火パターンと、外界の事物との対応関係、すなわち、「反応選択性」を明らかにできたとしても、そのような対応関係を打ち立てることができたのは第三者の立場にいたからであって、肝心な、観察の対象になっている脳に宿る「心」にとっては、そのような対応関係はあずかり知らぬことなのである。 (pp. 80-81)
うん、一人称的視点のみから、特定のニューロン(群)の「反応選択性」を知ろうとするのは、無駄な努力だろうね。それで?
別の言い方をすると、ある人の脳の中で、ある特定のニューロン(群)があるパターンで発火していたとして、その発火パターンがどのような刺激の特徴に対して反応選択性を持つかということは、その時の脳の中のニューロンの発火だけを見ていても、決めることができない。 (p. 81)
それで?
ところが、私たちの心の中の表象は、まさに一瞬にして脳の中のニューロン(群)の発火パターンによって、それだけに基づいて生じている。 (p. 81)
うん、それは茂木が宣言していたことだよね。それで?
だとすれば、脳の中のニューロン(群)の発火パターンに対して、心の中にどのような表象が生じるかという対応関係を、「第三者」を介した反応選択性の概念からは導くことができないということになる。 (p. 81)
・・・んだそうな。
「第三者」、「脳に宿る「心」にとって」という言い回しの使い方について、私は茂木に同意しない。
以下では、「三人称的視点」、「一人称的視点」という言葉を使って話をすることにしよう。
「認識におけるマッハの原理」、いやそれ以前に「認識のニューロン原理」にコミットした時点で、機能主義(心的状態タイプとは、システムの内的状態とシステムの外的な事物の因果関係、さらには、システムの内的状態相互の因果関係によって定義されるという立場)が排除されることはもう分かっていたことだ。なぜって、機能主義は、心的状態と外的な事物との因果関係を考慮しているから。
私が引っかかるのは、茂木がこれらの文章に「「第三者」を介した」といった表現を散りばめていることだ。茂木自身の立場は「「第三者」を介していない」かのような書き方なのである。
この書き方に私は真っ向から反対したい。「認識におけるマッハの原理」を採用した上で探るべき、ニューロン(群)と心の中の表象の対応関係も、三人称的視点に依存していることははっきりしている。特定のニューロン、そして、それと他の全てのニューロンの発火との関係(「認識におけるマッハの原理」が許容する説明項)を観測し記述するのは、fMRI や PET などの観測機器を駆使する脳科学の仕事であって、一人称的視点のみから観察可能なことでは全くないのである。ゆえに、「認識におけるマッハの原理」を宣言する茂木も、三人称的視点に依存しているはずなのだ。
この「三人称的視点」、「一人称的視点」にまつわる混乱を除去して、「「第三者」を介した」を「外部の事物を考慮する」に置き換えると、茂木のさきの文章は、こうなる。
ところが、私たちの心の中の表象は、まさに一瞬にして脳の中のニューロン(群)の発火パターンによって、それだけに基づいて生じている。だとすれば、脳の中のニューロン(群)の発火パターンに対して、心の中にどのような表象が生じるかという対応関係を、外部の事物を考慮する反応選択性の概念からは導くことができないということになる。(p. 81. 改変はどぶさらいによるもの)
うん、これなら、反感はかなり軽減する。脳内在主義を繰り返し述べているだけだしね。
だが、これに則った仕方で為された研究がうまくいくかは、また別の話。
結局、「反応選択性」の概念は、脳の中のニューロン(群)の発火パターンと、外界の事物の特徴がどのように対応しているか、それに基づいて脳がどのような情報処理を行えるかという、機能主義的な立場においては有効であるものの、脳の中のニューロンの発火から私たちの心の中の表象がどのようにして生じるかという、心脳問題の核心に関わる問題においては、ほとんど有効性をもたないと言わざるを得ないのである。 (pp. 82-83)
茂木が何度も同じことを言うもんだから、私ももう一回書いておこう。
茂木は、機能主義を批判したというよりは、機能主義をそもそも排除する原理を宣言しているのである。